せんたくばさみ

たくさんとめる

20200213_イブの日

日記44日目。

今日はバレンタイン・イブらしい。

嫌でも声が大きくて聞こえてくる22歳女子の話し声で気付いた。

 

昨年・一昨年までは名古屋駅直結のビル内で働いていたので、この時期は相手がいなくとも自分のためにせっせと催事に通ったものだ。

夕方や朝方は混むけれど、昼休みを少しずらして買いに行けば空いていたし、職場に戻れる余裕もあって贅沢だった。

 

天と地の違いで昔のことを思い出すのがつらく、また相手はいなければ自分にも買う余裕が無いので、触れないようにしていたら本当に気付かなかった。

何だかんだ記念日とかイベントって避けようとしても纏わりついてしまうものだったけれど、ここまで抜けていたのは初めてで、何だか少し感動したし気が軽くなったような気もしないでもないでもない。

 

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今日は朝方雨が降った(はず)なのに温かくて、自転車を漕いでいたら汗だくになった。

明日はまた雨らしくて嫌だな。

味玉、やはり漬け汁二回目は味が薄いし衛生的にも良くないな。

 

今日は早く帰ってきて、何とか21時までに諸々済ませたけどスマホが気になってしまって、弁当と皿洗いをしてたら23時になってしまっていた。

スマホ依存である。

 

今日考えてたのは、やはり自己肯定感についてで、毎日毎日同じ事を考えてるから情けなくなってくる。

自己肯定感というか、自己という形骸的なものについて考えていた。

 

私は今何の自信もなくて、仕事をしてないから他人に認められることもないし、何かを生み出す趣味も創作もしていないから、外界から自己を認識される事が全く無い。

 

だから「何かをすごく好き」でいることでアイデンティティを保とうとしている。「何かをすごく好きな人」は魅力的だと思っているからだ。

何かを特別に好きな感情と、それに伴うエネルギーを行動に移す事で、外的接点が生まれ、私は自己が「まともである」と証明して安心したいのだ。

物を購入するとか、出掛けるとか、感想をSNSに呟くとか。

 

但し、その行為自体が「何かをとても好きな人」を演じていることにも気付いているため、私の中の「好き」という感情全てが今信じられないようになってしまったけど。

つまり、「まともな人」でありたいがために、故意的に「何かをとても好き」になっているのではなかろうかと。

 

自己というのはとても曖昧で脆い。

自分ひとりでは、自己の存在を証明できない。第三者がいなければ、自己などあってもなくても変わらないのだ。

自己は、対外的な接点を持つ事で、明るみに出て輪郭をなぞられ、初めてそこに存在するのだと思う。

 

だから、1人だけの世界で生きるだけならば、自己なんて必要ない。

外から認識する他人も、比べようとする他人もいない、つまり私の自己の存在を証明できる第三者がいないからなのだ。

 

しかし私は残りの余生あと50年近くをどうにか生きていかなければならないそうなので、他人との関わりは避けずに通れないため、自己の維持について苦しんでいる。

 

もう逃げたい、面倒だから手放したいと思っているけど、誰もそれを許してくれない。

眠いからツイッターに呟いてた奴の方がちゃんとしてた気がする。

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夜は昨日のポトフと、温やっこに春キャベツのおかか和えをのせた。

 

ポトフは日が経つとグンとスープが甘くなる。

 

だめだ眠い。

もう25時を回ってしまったばか。

せっかく23:30に布団に入ったのになあ。